四度目の水祭

2024年4月26日

 国軍という名の利権的暴力集団による違法な政権簒奪後にめぐりきた四度目の水祭。ビルマ暦の大晦日にあたるこの祭が終わると新年だ。日程は毎年異なり、今年は4月13日から21日までが休日となった。酷暑が続き、熱中症対策も呼びかけられる中、市民は水をかけあって古い年の汚れを払い、新年を祝えただろうか。ヤンゴンではいくつかの仮設舞台周辺で、日当で動員された者たちを含めて賑わいらしきものが見られた。一方、軍事大学を擁する高原の避暑地ピンウールィンの水祭には、「国軍」総司令官自らお出ましとなったが、革命勢力がドローン爆弾を20発以上お見舞いし、来客一同そそくさと下山した。
 明けて元旦の17日、革命勢力は新年紙飛行機キャンペーンを呼びかけた。願いを紙に書いて飛行機を作って飛ばす、あるいはそれをビデオに撮ってSNSに載せるのだ。同じ日、「恩赦」で3303名が釈放された。この人数は、「9」という数字に威力があると信じる呪術好きの総司令官の意向らしい。政治囚は少数で、中には釈放後再び拉致されて行方不明となった者もいる。22日には、北端カチン州のミッチーナー刑務所で、3名の政治囚が射殺された。「恩赦」が出なかったことに抗議行動をしたからだという。
 アウンサンスーチーが刑務所外に移されたとの情報も流れた。しかし独立系メディア・エーヤーワディーの解説者は、「国軍」報道官が、彼女を「移送した」とは言わず、「猛暑対策をこうじた」とのみ述べたとして、移送説に疑義を呈した。エアコン設置程度の対応ではないかと彼は見るが、それも疑わしい。かつて当局が彼女にエアコン設置を提案したが、彼女は設置するなら全室になすべきで、自分の独房は最後に回すよう主張したからだ。
 水祭の期間も、「国軍」による焼き討ちや空爆、そして彼らの投降や逃走や戦死がSNSに流れた。そんな中で目を引いたのは、各種革命勢力軍事組織の教練修了式挙行の報である。徴兵制を逃れて解放区に赴いた若者たちも、巣立っていったのだろうか。それ以上に目を引いたのは、各種市民が避難民やPDF(人民防衛隊)に食料や生活物資を施す行為だった。現場で調理して食事を振舞う風景も見られた。場所や主体が特定されるのを怖れ、顔にもぼかしが入るが、「国軍」の焼き討ちが多発する中部が多い。280万の国内避難民を抱え、人口の四分の三が貧困に苦しむ中、これら積徳行為が焼け石に水だとしても、危険を顧みない彼らの心意気は脱帽に値する。
 ところで、市民が闘いを支える風景は、古くから小説でも取り上げられた。たとえば、反英反植民地闘争から抗日闘争を背景に、一人の若者が心の軌跡を独白する長編『東より日出るが如く』(1958テインペーミン1914-78)でも、1938年の反英ゼネスト(ビルマ暦1300年事件)における学生デモと市民の支援が描かれる。その後、非暴力闘争に限界を感じた学生たちが日本軍特務機関の助けでBIA(ビルマ独立軍)を結成し、日本軍と共にビルマに戻って英軍と闘った際も、それは次のように主人公の伝聞として語られる。
「岸辺で戦闘があったという。堤防を盾にしたBIAと、イギリス軍が川の中で交戦した。白激戦の中で、市民はBIAを様々に支援した。爆薬を運ぶ者、水をふるまう者、葉巻を差し出す者、飯包みを渡す者、見物して声援する者、BIAに入隊を志願する者などで、大賑わいだったという。BIA兵士賞賛の声が広まっていた。」(『東より日出ずるが如く』下巻p.285南田みどり訳1989井村文化事業社刊)
 いうまでもなく「国軍」の前身はBIAだ。かつて市民に愛されたBIAではあるが、その末裔は変質の果てに自壊に向かい、それを追い上げる各種革命勢力に市民の愛は注がれるに至っている。上記長編の作者テインペーミンは、1942年初頭に抗日文書を配布して日本軍に追われ、同年7月にインドに脱出するまで国内を転々とした。そんな彼を助けたのは旧知のBIA幹部だった。彼はインドで抗日活動中に彼らに連絡を取り、ビルマ軍は抗日に転じる。テインペーミンはその後、ビルマ式社会主義という名の軍事官僚独裁に協力した。彼のように、抗日の「栄光」にとらわれる余り「国軍」への幻想を払拭できなかった者は少なくない。現在の事態に至る要因は、「国軍」側にのみ存在するわけでもなさそうだ。
 そんなおりしも、第二次徴兵制の動きが始まった。それに先立ち、バゴウ地域のピュー市では、21日にバイクで通行中の若者60名が拉致され、家族との面会もかなわないという。  
 一方世界各地に在住するビルマ市民は、賑々しく水祭を祝った。わたしも近くの水祭会場に閉会間際に飛び込んだが、雨天もなんのその、若者たちが舞台と一体になってエネルギッシュに歌い踊っていた。入場料も模擬店の売り上げも、革命勢力への支援金となる。

 


 

南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。同外国語学部非常勤講師としてビルマ文学講義も担当中。