
2025年4月25日
「マンダレーはちょっといやな町である。ほこりっぽく耐え難いほど暑い。Pで始まる五つの主産物がこの町にあると言われている。すなわち仏塔、のら犬、豚、僧侶、娼婦だ」と、ジョージ・オーウェル(1903-50)は『ビルマの日々』の後日譚部分(1934宮本靖介・土井一宏訳 昭文社1984 357頁)で書く。しかし、この名作をビルマ語に翻訳した者は、まだいない。マンダレー人の誇り高さや強い郷土愛に配慮してのことであろうか。
1859年建設のマンダレーは、ビルマ族王朝最後の都だ。往時のままの城壁を堀が囲み、道路は碁盤の目状に広がる。この国の中央を南北に走るインドプレートとユーラシアプレートの間のザガイン断層がその下にあったことが、3月28日の惨事(ミャンマー便り2025年3月30日参照)を呼んだ。この国では、1839年、1930年(5月12月)、1931年、1946年、1956年、1991年、2012年にも、マグニチュード6.9から8.3の地震が起こっている。
作家S(便り23年11月20日)は、フェイスブック連載中の「時の大蛇中央プレートから覚醒(15)」で次のように述べる。マンダレー人は辛いとき、城壁や堀を眺めて心を慰めてきた。王宮は、1885年に駐屯した英国軍に財宝を略奪され、1942年に日本軍の空爆を受け、1945年に連合軍反攻で焼失し、1990年に修復され、今回の地震で最大の破壊を被った。
彼はまた、有名なマハムニ・パゴダが地元でパヤー・ヂー(大パゴダ)とのみ呼ばれるなど、マンダレー人特有の表現の数々にもふれる。マンダレー人らしい温かな辛辣さで作家仲間に愛されたメーマウンは、大パゴダの参道で仏具店を営んでいた。パゴダ全壊時、彼女は避暑地ピンウールィンに滞在中で難を逃れた。しかし病魔には勝てず、4月19日、68歳の誕生日にガンで世を去った。拙訳「注文・・・・・恋しがらないで」(1992『ミャンマー現代短編集2』大同生命国際文化基金1998所収)は、苦労の絶えない女友達への辛辣な鎮魂歌だ。ショートヘアーでキャップを愛用し、少年の雰囲気を漂わせたメーマウンは、「女はつらい。結婚などしない。来世は男に生まれたい」と語っていた。よき転生を祈りたい。
潜伏作家K2の定期便(便り22年7月12日)は、途絶えてから8日後に再開した。彼は、潜伏中に出版した13点の本をまだ手にしていないと言っていた。てっきり解放区か国境地帯にいるものと思っていたが、マンダレー市内の堅牢な5階にいたらしい。今は他市に移ったと言うが、マンダレー人は一筋縄ではいかない。メッセージも検閲の恐れがある。存外彼は、余震の続くマンダレーにいるのではないか。敵を欺くにはまず味方からという。
マンダレー県NLD(国民民主連盟)副議長コウコウレー(55歳)は、2015年と20年の総選挙でNLDを勝利に導いた功労者だった。逮捕状が出てシャン州に潜伏中の4月12日、マンダレーに潜伏中の妻(50歳)が逮捕され、尋問中に殺害された。亡骸は18日に市内に遺棄された。愛妻の訃報が届いた22日、彼は脳出血で急死した。悲憤慷慨極まりない。
AAPP(ミャンマー政治囚支援協会)によれば、「国軍」が殺害した市民は23日で6550名にのぼる。停戦を宣言したはずの「国軍」は、連日各地を空爆している。「国軍」発表では、20日現在震災死者3775名、負傷者5108名、行方不明者120名だ。撤去作業は遅々として進まない。首都ネーピードーでは、支援物資が積まれたままで、「転売・交換不可」と書かれたWEP(国連世界食糧計画)のビスケット袋が500チャット(33円)で売られる。被害は大きく、省庁のヤンゴン移転も計画中だ。一方ラーショウ市(便り24年11月25日)では、中国の「仲介」でコウカン族のMNDAA(ミャンマー民族民主同盟軍)が撤退し、「内政不干渉」を掲げる中国の駐在事務所も21日に開かれ、22日に「国軍」が復帰した。
南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。ビルマ文学研究者・翻訳者。