哀悼ニープレー

2023年7月3日

 6月19日、アウンサンスーチー78歳の誕生日を世界各地のミャンマー市民は花で祝った。フェイスブックは花の写真で溢れた。昨年同様、老若男女が髪に花を挿し、花を手にした。昨年と異なるのは、国内で花を挿し、手にした女性130名が逮捕されたことだ。その衝撃も冷めやらぬ21日、作家K2が作家ニープレー(71歳)の死を知らせてきた。急いでフェイスブックを開くと、彼の死を悼む投稿が多数流れていた。死因は「心臓病」だという。
 彼は、我が定期便作家(便り2022年7月12日参照)の一人だった。2年半近く前の国軍という名の利権的暴力集団の政権簒奪以来、彼は民衆の勝利を確信し、連日斬新な風刺漫画に強烈なメッセージを添えてきた。死の前夜、あっけらかんと微笑むお茶目な写真も送ってきた。当日朝の定期便は、「犬軍(便り2022年11月1日参照)の終焉は2023年。彼らは確実に崩壊します。我々の革命は勝利します」と伝えた。4時間後、彼は突然旅立った。
 1978年1月、マンダレーのルードゥ(人民)出版社に、彼の両親で高名な作家のルードゥ・ウー・ラ(1917-82)とルードゥ・ドー・アマー(1915-2008)を訪ねた当時、彼は学生だった。75-77年マンダレー地域選抜サッカー選手でもあった。父の存命中は家業の出版のみを手伝い、ペンを取ろうとしなかった。 85年、彼はマンダレー周辺を舞台に珠玉の短編を雑誌に書き始めた。筆名のニープレー(かわいい弟)は、2女3男の末っ子だったことに由来する。本名をニェインチャン(平和)という。
 ビルマ共産党員だった長兄は、文化大革命時にジャングルで粛清された。次兄は、78年8月の逮捕寸前に「解放区」へ逃れた。その直後父母と彼の3人が逮捕され、7か月間投獄されたことが複数の追悼記事に記される。しかし、いま一つの投獄歴に言及する記事はない。90年11月、彼と6名のマンダレー作家が逮捕され、手錠のまま空路ヤンゴンへ送られ、取り調べられた。6名は10日後釈放されたが、彼だけが10年近く投獄されたのだ。
 一家は全国の作家たちから愛され、自宅兼出版社は人の出入りが絶えなかった。あそこに行ったら尾行がつくよと言われながら、わたしも出入りしたひとりだ。完成直後のルードゥ図書館を訪れた2008年には、門前で秘密警察氏と鉢合わせしたものだ(『ビルマ文学の風景』pp.260)。2010年以降は、そこで大量の日本占領期関連小説を閲覧してきた。
 写真家としても名を成した彼は、マンダレーで個展も開いた。図書館最上階には彼の撮った少数民族の写真が飾られる。玄人はだしの絵も、自著の表紙を飾った。長編2点、短編集10点、紀行2点を遺した。少数民族ナガ族の医師の生涯を描いた事実小説『鋭い剣の刃の上の甘い一滴の蜂蜜』は、2016年度国民文学賞を長編小説部門で受賞した。
 とはいえ彼の名は、『20世紀のビルマ作家』全6巻(2005-08)や『ビルマ作家辞典』(2018)の中に見いだせない。これらからは、ほかに少なくとも2名の高名な小説家が外されている。政治に介入され続けたビルマ文学界のいびつさが透けてみえる。一方24日、国際ペンクラブ・ニュースレターは、「ペン・ミャンマー会長ニープレー氏の死を悼む」と報じた。
 平均寿命の65.67歳(2021年)を超えて生きたのだから、立派な往生だ。ただ、勝利を見届けられなかったのは、無念だったかもしれない。国内避難民180万、殺戮された市民も4000名に近い。そんな今、米国の経済制裁が効きだし、軍事的にも新局面が訪れている。たとえば6月20日、東部カレンニー(カヤー)州で、暴力集団傘下の国境警備隊2個大隊がカレンニー軍に合流した。 24日、同州の暴力集団18名がカレンニー連合軍に投降し、重要拠点を棄てた。首都包囲網が又じわりと狭まった。なお、彼の「蓄音機回しの物語」(1989)が『ミャンマー現代短編集2』(1998大同生命国際文化基金)に拙訳で収録される。

 


 

南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。同外国語学部非常勤講師としてビルマ文学講義も担当中。