
2026年3月23日
2月末の暖かな日差しの中、北九州市若松区の火野葦平資料館とその住居・河伯洞を訪れた。資料も住居も丁寧に保存され、文字のびっしり埋まったノートや彼が最期を遂げた書斎には、いまなおその息遣いが漂うようだった。関係者のお話によれば、火野作品が日本占領期ビルマ(1942-45)で翻訳されていたことは知られていないという。
日本占領期のビルマ語出版物の中で、翻訳作品は12点確認している。そのうち3点が火野葦平(1906-60)の『土と兵隊』(1938)『花と兵隊』(1939)(チーブワーイエー・ウー・ラ(1910-80)1942訳)、『麦と兵隊』(1938)(マ・アマ―(1915-2008)1944訳)だ。前者2点はルイス・ブッシュ訳39年研究社刊、後者は石本静枝男爵夫人(後の加藤シヅエ)訳39年ファラー&ラインハート刊の英語版からの重訳だ。ビルマ語版は、ウー・ラが営むチーブワーイエー(発展)社が出版した。ウー・ラ訳の2点には、42年に軍政監部より日本図書刊行奨励金200ルピーが授与された。時を経て2018年にわたしは、マンダレーのルードゥ(人民)図書館(便り2023年7月3日参照)で、いま一つのビルマ語版『体験的戦場 麦と兵隊』(トウーテッイエー・ウー・テイン訳1939テインタン社刊)も手にしている。同館は、ウー・ラ夫人マ・アマ―(ドー・アマー)が浄財で2007年に開館していた。
ほかに、ビルマ作家協会機関誌『作家』創刊号(42年12月)に、協会副書記長ティーリマウン(1914-68)によるウー・ラ訳2点の書評が、同誌6号(43年6月)には訳者名空欄で翻訳「煙草と兵隊」(1939『広東進軍抄』に併録)が掲載される。同誌7号(43年7月)にも、「小説家」なる筆名の書き手による評論「煙草と兵隊 火野葦平紹介」が見られ、いずれもが火野作品の率直簡明な文体を評価している。
『インパール作戦従軍日記-葦平「従軍手帖」全文翻刻』(2017集英社)によれば、火野は、44年4月から9月までビルマに赴き、インパールまで70マイルの地点で引き返している。帰国後彼は大本営に呼び出され、意見を求められて、このままでは由々しき事態が生じると陸軍大臣に述べるが、理解されず衝撃を受けたという。『土と兵隊』執筆前に軍部からは、日本軍の敗北、部隊の名称と位置、戦争の害悪、女性の問題を書かないよう、憎むべき敵と立派な味方、勇敢で善良な将校の姿を書くよう等々7項目の指示があった。戦後彼は呪縛を解き、兵隊シリーズを書き直した。そして『密林と兵隊-青春と泥濘』(1950)(2013社会評論社復刻)では、インパール作戦従軍兵の凄惨な生と死を描きあげた。
同世代作家の高見順(1907-65)は42年にビルマで作家協会再建を支援し、戦後もウー・ラと親交が続いた。だが火野と訳者ウー・ラの接点はない。火野が自作のビルマ語版の存在を認識していた様子もない。火野のビルマ滞在中の44年8月、抗日統一戦線が密かに結成され、ウー・ラも活動に多忙を極めていた。二人の激動の人生は、平行線のまま閉じられた。
日本軍特務機関を生みの親としながら、対日協力の汚点を抗日決起で抹消した「国軍」は、いまや人道犯罪を極め、この5年で8000名近くの市民を殺害した。さらに彼らは3月8日、AA(アラカン軍)支配下のラカイン州アン市で、「国軍」捕虜の収容施設を空爆し、死者116名、負傷者32名を出した。物価高騰や銀行の現金引き出し制限、燃油不足による乗用車走行制限、さらには輸入規制で薬品、食品、日用品からペットの餌までが店頭から消え、市民は青息吐息だ。そんな中で、自作自演のいかさま総選挙に「圧勝」した彼らが16日に下院を招集し、予測通り「国軍」派政党代表を下院議長に選出した。
それに先立つ2月17日、ザガイン地域で500名を擁した革命勢力BNRA(ビルマ民族解放軍)が、NUG(国民統一政府)傘下のPDF(人民防衛隊)と徴税ゲート設置をめぐって銃撃戦を起こし、BNRA指導者が「国軍」ヘリで脱出した。その後の消息は不明だ。彼は「国軍」に内通し、自宅地下の豪華な壕が女性たちへの性的虐待現場となっていたという。革命長期化に伴い、多事多難が見舞う。試練は、それを乗り越える力量を持つ者のもとに訪れると思いたい。28日には、ザガイン地震1周年を迎える。
南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。ビルマ文学研究者・翻訳者。